浄土真宗本願寺派(西本願寺派)

納骨安置所 

浄土真宗の納骨の趣意について

浄土真宗の遺骨の扱いは、基本的には宗祖親鸞聖人の宗風を踏まえて納骨されます。一言で言えば「娑婆のものは娑婆に還す」ことです。その根拠は、聖人の御晩年、常随のお弟子さんが、聖人の荼毘の後の処理をお伺いなったところ、「我がなきがらは鴨川の魚に喰わせよ」との仰せが常々であったと、覚如上人の改邪鈔に見聞できます。

誰しも、老病死を体験しますが、仏教では、厭離穢土・欣求浄土(迷いの娑婆を捨て、浄土の悟りに至ると)を基本としています。身体は娑婆のもだから浄土に持って行くものではありません。逝くときには、娑婆での地位・名誉・財産全てを置いて逝くものです。身体も全て捨てて逝きます。その意味で、荼毘に附された白骨は娑婆大地に還すのが自然です。従って、浄土真宗では、遺骨ではなく、先人が旅立った浄土に向かって、手を合わせるのが念仏者の姿です。

しかしながら、近親の遺骨をそこかしこにばらまくことは出来ませんので、暫くはお寺の納骨堂やお墓の納骨室に収納して、年月をかけて土に返すのがしきたりとなっています。

本徳寺納骨の歴史的経緯と実情

本徳寺への納骨の歴史は古く、1681年に第八代・寂圓連枝によって本徳寺歴代の墓所として廟所が開設されました。廟所の形態は参拝するための廟堂と遺骨を捨骨する墳墓から成り立っています。阿弥陀仏を御安置してある廟堂が『参り墓』、骨を収納した墓を『捨て墓』と言います。その呼び名から推測できるように、お墓参りで手を合わすのは『参り墓』である廟堂なのです。

廟所の開設以来、廟堂を中心に本徳寺の有縁末寺の寺院の墳墓が営まれました。その後、江戸中期の元禄頃から、本徳寺末寺の有力檀徒が一党の墳墓を営むようになります。江戸期を通して、納骨者の範囲は徐々に広まり、播州一円の真宗門徒の納骨が行われるようになりました。

一方、本坊のほうでは、江戸の末期から明治にかけて、少数ではありますが納骨が始まります。本坊亀山で納骨式をし、そのまま遺骨は一時、本坊に保管され、最終的には廟堂の総墓に埋葬されるようになります。この伝統習慣は今も続けられており、現在では西播辺りからの納骨も多く、年間に百件ほどの納骨式が修行されています。

かって、廟所にも納骨堂がありましたが、1931年に、今在家の平野亀之助氏の発願によって、本格的な名号塔式の総墓が建てられました。この総墓の完成以後、近傍の真宗門徒が京都本願寺に分骨する代わりにここに納骨するようになりました。本坊納骨の遺骨もここに葬られるようになりました。本徳寺での納骨作法は本願寺と同様の作法で行われていたと考えられます。

戦前から、本坊の納骨受入れの増加に伴い、一時的な遺骨の安置場所として既存の施設を借用しておりましたが、維持・管理の関係上、1982年に、篤信の門徒・竹内キヌエ氏が発意して、今の浄華堂の建立がなされました。

現在は、ここに本坊で納骨式を厳修し遺骨を一時仮置きして、最終的には廟所で土に返す方法をとっています。尚、本坊の仮置き遺骨と廟所の無縁墓の改葬遺骨の収納場として、1991年に吉田吉松氏の懇念によって大型の新名号塔が建立されています。

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