昨今を振り返り、外には一触即発の世界情勢、内には老病死を体験する毎日、内憂外患の娑婆濁世ではありますが、令和五年も無事始まりました。有縁の皆様にはお念仏の智慧を頂いて老病死を貫く限りない命に出会っておられることとお慶び申し上げます。

コロナ感染の余波をかかえて新しい年が廻ってきました。出口の見えないウクライナ侵攻、三期目を手にした習近平の台湾侵攻の野望、ヨーロッパや米国、そして中国の同時景気後退が遠からず世界の金融危機の発端となることを多くの専門家が指摘しています。

そんな不安のなか、改めて年頭のご挨拶をさせて頂きます。皆様におかれましては、ますますのご法義相続を念じますとともに、本徳寺の護持にご協力いただけますようお願い申し上げます。

 

 

本徳寺法如上人法語

播州本徳寺でお生まれになり、河内顕証寺に入寺され、本山本願寺十七代を歴任した方に、法如上人がおられる。江戸期の人事は今ほど単純ではなく、宗主を支持する地域の門徒勢力の影響が無視できなかったことがあり、播州の門徒と河内の門徒は本山を支える有力な、しかも拮抗する二大勢力であったことが窺える。

さて、私ごとで恐縮だが、私が本徳寺と寺族を自覚したのは中学になってからである。それまでは、父の仕事の関係上ほぼ在家の認識であった。そこに至る複雑な経緯は省くが、真宗における僧とはなにかに相当悩んだ時期があった。学生時代、親鸞聖人の「僧にあらず、俗にあらず」のお諭しは知っていたが、今一つ腑に落ちるところではなかった。そんなとき、出会ったのはこの法如上人のお言葉である。ここから真宗の僧とはこう言うことかと合点がいったことを、今でも鮮明に覚えている。大半の真宗人はご存じと思うが今再度読み返していただければ有り難い。

法如曰く、

「苦は欲より出でて身を悩まし、名聞は我より出でて心を費す。身の分限を顧みれば人に怨みなく、足ることを知る時は世利を貪ることなし。求めてももとむべきは法の縁、慕ふてもしたふべきは良き同行なり。朝に結ぶ露を見ても、あだし野の脆きを思ひ、夕立つ烟につけも鳥部野のはかなきを悟りても心にかくべき法の縁なり。衣食住の三つは念仏の助業とあれば、朝夕家業を心にかくるとも、仏祖の御恩を忘れずば、家業も報仏恩の助となるべし。たとい又法門ばかりを所作とすとも、自信教人信の念なく、名利の為に行う時は、仏法も亦渡世となるべし。故に信は仏智の大悲に縋り、報謝は行者の厚念に励むべし。法の道ただ一すじに渡りなば かの浮世も住みよかるべし」

七四歳の今にいただいても肝要を得たお諭しである。とりわけ自信教人信について触れると、私自身、過去の苦い反省が思い起こされる。

「自信教人信 難中転更難」みつから信じ人を教へて信ぜしむること難きがなかにうたたさらに難し

「大悲伝普化 真成報仏恩」大悲をもって伝へてあまねく化するはまことに仏恩を報ずるになる

この文は、善導大師の往生礼讃の中にある。「自ら信じ人に教えて信じさせることは難しい中にもとりわけ難しい。仏の大悲を伝えて普く導くことが真の仏恩に報いることになる」。つまり、信心をこの身にいただき(自信)、それが人にもはたらくこと(教人信)となるのは、自分が納得した信心を受け売りするのではなく、自信はそもそも大悲のはたらきによるものであり、大悲のはたらきに導かれていることをただ慶び報謝する姿が教人信となる。と後から知った次第である。

今から思えば懐かしい限りである。

本徳寺住職 大谷昭仁