春風表敬

ワクチン効果があるとは言え、コロナ感染が今だ拭いきれない昨今です。

そんな不安のなか、新年を迎えることとなりました。改めて年頭のご挨拶をさせていただきます。

さて、この年、法務の依頼数の減少、行事の縮小、団体参拝や集団的催が皆無となり、本徳寺の会計は本坊・廟所とも赤字となりました。お寺も娑婆の経済に強く影響されることを改めて知らされました。

それでも果敢に坊守が音楽コンサートを年末に企画し、多少なりとも関係者が集まり、心温まる時間が持てたことは有り難いことでした。また、メディアが本徳寺の伝統とその価値を新しく掘り起こして頂けたことは有り難いことでした。何時も一寸先は闇ですが、信心の智慧をたよりに一歩一歩前進するのみです。

各ご寺院におかれましては、ますますのご法義興隆を念じますとともに、ご教導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げる次第です。

 

 

浄土真宗の遺骨観と納骨の推行

最近巷では遺骨の始末が問題になっている。家族がバラバラになり、子の親に対する伝統的な考えが希薄化し、親は親、子は子と言うわけで、親の末期の面倒もないがしろにされ、老人ホームや病院で亡くなった親の遺産を念頭に、費用対効果を考えて、出来るだけ質素な葬儀にする傾向が顕著だ。

私も、近年葬儀の場を見てきたが伝統的な葬儀に出会ったことがない。とりわけ、近年のコロナ禍の影響で核家族葬が定着てしまったようだ。なかには、故郷の一人身の親の死に際して、都市部の子供家族が赴いて、名古山葬場のコミュニティーホールでネット坊主を依頼して簡単な葬儀をすませて、火葬の後、すぐに遺骨を名古山霊苑協会の納骨所に入れるという離れ業も論外ではなくなった。

一方では、故人の愛着の念を断ち切れず、遺骨をどこまでも抱え込むといった者、遺骨を加工して常に身近に置きたいと思う者、多種多様である。

真宗の遺骨の見方は、宗祖親鸞聖人の遺骨観を踏まえて納骨される。一言で言えば「娑婆ものは娑婆に還す」ことだ。その根拠は、聖人の御晩年、常随のお弟子さんが、聖人の荼毘の後の処理をお伺いなったところ、「我がなきがらは鴨川の魚に喰わせよ」との仰せが常々であったと、覚如上人の改邪鈔に見聞できる。

誰しも、老・病・死を体験するが、仏教では、厭離穢土・欣求浄土迷(迷いの娑婆を捨て、浄土の悟りに至ると)を宗旨として新年謹呈浄土真宗の遺骨観と納骨の推行いる。身体は娑婆のもだから浄土に持って行くものではない。逝くときには、娑婆での地位・名誉・財産・信条の全てを置いて逝くものだ。身体も全て捨てていく。その意味で、荼毘に附された白骨は娑婆大地に還すのが当然である。

従って、浄土真宗では遺骨に手を合わすことはない、先人が旅立った浄土に向かって、手を合わせるのが念仏者の姿である。

しかしながら近親の遺骨をそこかしこにばらまくことは出来きないため、しばらくはお寺の納骨所やお墓の納骨室に安置して、年月をかけて土に返すのがしきたりとなっている。

本徳寺住職 大谷