播州門徒追弔法要 9/2(日)午後1時~
健康で若い躰は乗り心地のよい乗物です。
運と努力によって手に余る財や福を享受しますが、「老・病・死」は根こそぎそのすべてを奪っていきます。
人は自らの命を生きますが、命の依って来る由縁と逝くところに疎いものです。従って、心底落ち着く処を知りません。
転変する心身に右往左往して最後はただ骨になるばかりです。現世の娑婆はかくもはかなく悲惨です。この原因を仏教では無明といいます。
過去において数知れない先祖・先達がお念仏の真意を聞き、仏の慈悲に促されて、この過酷な無明を見通す智慧を戴いていかれました。
先に行く者は後を導き、後の者は先を訪うとおり連綿と続く法義相続が浄土真宗の追弔会をかたちづくって来たのです。
法要では五百年来の播州門徒の法義相続と本徳寺護持の尊行を表白に証し、阿弥陀経が勤修されます。
仏陀の舎利佛への説法を、私の問題と捉え自らの「いのち」の本性を明らかにさせて頂き、
無明の迷いから浄土の悟りに至る仏の願いを領解させていただきます。
読経中には、それぞれの先達への遺徳を偲び、共に仏徳への讃歎を合掌・礼拝にこめてお焼香を致しましょう。
法要を縁に後生の一大事を仏様の説法に聞いていきます。
迷いの娑婆世界では自分の問題を先祖の問題にすり替えてしまうとんでもない過ちを犯しがちです。
先祖の供養を縁に、今を生きる私が先祖と共に阿弥陀仏の大慈・大悲に合掌するという真宗の正しい先祖観を学びましょう。
皆様のご参集をご案内いたします。
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いのちの真実を知る
本徳寺の境内には、戦没者の追悼記念碑が少なからず建立され、西南の役、日清戦争・日露戦争、日支事変(写真中央)と戦争の惨劇が刻印されています。これらの戦争によって多くの犠牲者が出た事実を忘れることはできません。
しかし、戦後の日本社会でも、大量の物の生産と消費の中、平和という幻想のなかで、戦時下でないにも関わらず大量の「いのち」が押し潰されていく文明の凄まじさを見せつけられます。戦後の一見平和で豊かな経済はさらなる大惨劇の幕間にしか過ぎないのかもしれません。
自己犠牲が美徳ではなくなったこの時代、この社会は、全能感の肥大化と他をかえりみる想像力の欠如によって、万人の万人に対する修羅場と化してしまいました。
冷静に近代という激動の世紀を眺めてみると、戦前も戦中も、そして戦後もこの人間の本質はいっこうに変わっていないのに気付かされます。
ご仏前で、縁有る犠牲者に追悼の誠を捧げるとき、不完全な文化や価値観をもってしか生きることが出来きない人間の宿業的な問題に突き当たります。自縛の苦悩地獄が始まってから、法蔵菩薩が終始問題とされ、その解決のために阿弥陀仏となられた真意を今一度深く考えてみたいと思います。
さて、今まで篤信の世話方や播州一円の門信徒が、この本徳寺を心の拠り所にされて来ました。これらお世話方・門信徒の報恩行は、人間の宿業の解決こそが、人が本当にしあわせになる道であること。その為には「私」が仏様から願われているいのちの存在に気づくしかないことを、身をもって示いのちの真実を知るされたものであります。
平成14年度まで戦没者と物故世話役の追弔法要を勤めさせていただいておりました。戦没者の多くは真宗のご門徒であり、この法要に参集される方は真宗門徒にかぎられていたこともあって、平成18年から、遺族はもとより、廟所に納骨された本徳寺有縁の門信徒も含めて播州門徒の追弔法要を勤めさせていただいております。
とりわけご生前中、お取り次ぎ頂いた本徳寺のお世話役様と本徳寺にご縁のあったご門徒のご苦労を忍ばせていただきます。
この上は、先達の「いのち」を正面から見据え、阿弥陀仏が願われている「いのち」の真実に気づかせていただき、自らが納得のいく「いのち」の全貌を自覚する機会にしていただければ、これ以上のことはありません。
つきましては、9月2日・日曜日・午後1時から亀山本徳寺本堂にて「播州門徒追弔法要」を勤修いたしますので、是非ともご参加下さいますようご案内申し上げます。
本徳寺住職 大谷昭仁