9月21日から25日まで5日間、例年通り、お彼岸の行事を勤めます。

彼岸とは此岸に対するものです。そう此岸はこの苦楽に明け暮れる娑婆の世界、われわれの日常です。われわれはこの世界で修行をして、生老

病死を体験させて頂いて、やがて、迷いの「私」を捨てて浄土のさとりにいたりますが、そのことに気付く人は希です。

仏様に、終生、問題とされ、目覚めてくれと願われている「私」の本性と向かいあった時、浄土真宗の「法」の世界が始まります。

本徳寺有縁の皆様方に、左記仏縁のご案内を申し上げます。なお、21日は午後1時の勤行後住職による由緒法話があります。

 

2018年秋彼岸讃仏会日程詳細はこちら

 

 

 

以下トップページより移行

到彼岸に想う

暑さ寒さも彼岸まで。このころには決まって、本堂の裏に彼岸花が顔を出し、夏の終わりと秋の初めを告げてくれます。世間には、文化の呪縛とでも言いましょうか、その由来も意味も分からないまま、ただ年中行事となって執り行われるイベントが多々あります。そのなかの一つがお彼岸です。彼岸にはお墓参りをして先祖に思いを手向け、仏事をおこなう宗教行事となっていますが、残念なことに、インドや中国にはない仏教行事がいつ頃に、何故、日本に定着したのか皆目分からないそうす。

日本における明確な四季の循環、稲作を中心とした農耕サイクルとの関係などが考えられますが、これといった決め手はありません。しかし、彼岸行事の記載はふるく、古代にはすでに彼岸が国家的公式の行事とされ、また、源氏物語をはじめ平安初期の諸文献にも散見されるので、このころには民間でも定着していたことが分かります。

「彼岸」は文字通り「彼の岸」ということで、あちら岸です。したがって、今いるところは此岸、つまり、こちら岸。「彼岸」は、こちらからあちらへと川や海を渡るイメージをもっています。ですから、「彼岸」は正確には「到彼岸」と言って、こちら岸からあちら岸に渡ることを意味しています。古来の日本人は人が死ぬと単純にあの世へ行くと感じていました。あの世は山や海であり天上や地下であったりしますが、とにかく、死んだ先祖が行く場であり、そこにとどまり、また帰ってくると言う古代の民族信仰がそこにはあります。このような素朴な信仰ベースに、秋の農繁期を迎え、先祖のお蔭と、大地や太陽への感謝が彼岸の行事を形作っていったのかもしれません。毎年繰返される不安定な農耕収穫と先祖信仰を背景に、農耕の休閑期と時候のよさとがあいまって、日本の民衆に古くから広まっていった行事と考えられてます。

しかし、民族文化の底辺を流れる素朴な「あの世」観は、時代の推移とともに、かたちの解釈から内面の実相に注意が向けられていきます。ここに仏教が大きく関わり合いを持ったことは言うまでもありません。「彼岸から此岸へ」を「娑婆から浄土へ」に転換することによって、民族の生死観におおきな目覚めをもたらしました。つまり行ったり来たりするこの世やあの世は所詮現世の延長であり迷いの輪廻界でしかないのでは…と。娑婆世界から悟りの世界への解脱をまって、真に到彼岸が実現することに目覚めた日本人が育っていたのです。この時に、日本人は「ヒト」から「人」になったのではないでしょうか。もちろん、一足飛びに、人間観が深まったわけではありません。当初は、あの世を極楽浄土とみたてて、春と秋の彼岸に仏教行事をとりいれて、次第に、仏教の教えに目覚めていったに違い有りません。

初期の彼岸行事で有名なのは、聖徳太子縁の四天王寺・西門外所の西方浄土信仰があります。太陽の真西に沈む方向に遠く浄土を観想するこの信仰は、太子信仰と結びつけられ、古代の浄土信仰を今に伝えています。『四天王寺御手印縁起』の虚偽にも関わらず、今なお、彼岸には大勢の人が詰めかけ、先祖の供養や太陽信仰のなごりを見ることができます。

決定的な「ヒト」から「人」への変革は中世におこりました。中国浄土教のリーダー・善導大師の「二河白道」はそのことを端的に示しています。荒れ狂う海と燃えさかる炎火の中にしっかりと架けられた此岸から彼岸に到る一筋の白い道のイメージは、古代の他界思想では手に負えなくなっていた日本人の生死観を大きく飛躍させました。人間とはなにものであるかを深く見通せたものが、釈迦・弥陀の教えを唯一の頼りとして、ひとり静かに進み行く念仏の道です。二河の象徴である貪りと怒りを乗り越え、初めて成就する歓喜と悟りの境位が浄土です。善導は、この浄土へのイメージトレーニングに『観無量寿経』の日想観の行法を示して、『冬夏の両時を取らず唯春秋の二際を取る、その日正東より出て直西に没す阿弥陀仏国は日没処にあたる』とその時所を述べました。このように西方極楽浄土を観想する上で、「彼岸」はあらたな意味を持って登場することになったのです。
何故に西方浄土なのか。時空間の観念にとらわれた煩悩具足の凡夫が、時空間を観念にとらわれない浄土を見ることはあり得ません。しかし、浄土への往相がこの身に実現されるためには明確で寸分狂いのないイメージを必要とします。その意味で、浄土を目指す凡愚身において西と定められたことはとりわけ重要なことなのです。この方便の浄土は、信心を決定し此岸から彼岸に渡る生身の凡夫にとって欠かせない方位なのです。

亀山本徳寺では9月21日から24日まで5日間、お彼岸のお勤めを執行します。「世界は燃えている」と直感されたのは釈尊です。此岸の人は御しがたい欲求と恐怖を抱えて底知れぬ不安と飽くなき夢から一刻も逃れることはできません。此岸から彼岸に、迷いの世界から目覚めの世界へ、仏様に、終生、問題とされ、目覚めてくれと願われている「私」と向かいあった時、浄土真宗の「法」の世界が開かれます。どうぞ、お誘い合わせの上、本徳寺の彼岸讃仏会にご参集下さい。

本徳寺住職 大谷昭仁