浄土真宗本願寺派(西本願寺派)

中宗堂(蓮如堂)

中宗堂(蓮如堂)

蓮如堂

本堂南脇に寄り添うように中宗堂(別称蓮如堂)がある。ここには吉崎や山科と同様、蓮如上人と縁の深い寺院として別に祠堂を設け、上人のお木像をご安置している。本願寺教団の骨格が偏に蓮如上人の真宗再興の思いによって創設されたことをよく示している。

播州のお念仏の出発は、蓮如上人のご晩年、既に吉﨑で本願寺の再興をはたし、その後、近畿一円の教化は仏光寺・経豪の帰参を機に一挙に展開する。仏光寺四十二坊を擁立した京都・山科野寺の寺内町が開かれ、教団組織の盤石の体制が築かれつつあった。山科本願寺完成後、蓮如上人は時をまたず、最後の力を振り絞って西国への教化に乗り出す。その拠点となったのが大坂石山の御坊である。さらに蓮如上人は石山坊の着工と同時に西の橋頭堡を目ざして、御堂衆・空善を播州英賀に差し向けた。

1490年代、英賀に本願寺の基盤が築かれ、ここをベースキャンプにして蓮師最晩年から実如上人の時代にかけて、中国・四国・九州方面における仏光寺系の寺院・門徒の本願寺系列へ転派が加速した。英賀寺内町は、上人の直接のご下向は実現しなかったが、播州門徒の意気と空善の働きによって上人のご晩年より立ち上がり、本願寺の最西端の寺内町として重要な役割を果たしてきた。

1515年、英賀御堂が開創し、英賀寺内町は瀬戸内海に勢力をもった一向宗門徒の中継港として大いに繁盛し、西国からの物資はこの地を経由して大坂・近畿に運ばれた。このように中世戦国時代には大坂石山本願寺との関係を深く持ちながら西日本への教線拡大の最前線基地として機能し、後半の戦時には大坂石山本願寺を支える毛利・村上水軍の軍事拠点として大きな役割を果たした。

石山戦争によって中世本願寺は解体され、本徳寺は亀山に移築され、近世教団の重要拠点として再生する。このような歴史的経緯から本徳寺に中宗堂が建立された。この時期に、吉崎や山科でも中宗堂の建立が行なわれている。日本において庶民の観光(本山参りが大義名分)が始まる時期に当たり興味深い。

この時代、播州の亀山本徳寺は西国録所としてまた播磨の真宗本寺として広範な門徒衆の崇敬を集めていたため、西国からの参詣も多く、京都上山の代役も果たしていた。そのようなこともあって、吉崎や山科と同様に蓮如上人建立の由緒を示す象徴的建造物として蓮如堂が建立されたことがわかる。

空善聞書

「ある時仰せに、わか御身の御母は、西国の人なりとき々及候ほとに、空善をたのみ、播磨まてなりともくたりたきなり、

わか母は我身六の年にすて、行きかたしらさりしに、年はるか後に、備後にあるよし四条の道場よりきこえぬ、

これによりて播磨へくたりたきと、いひけれは、空善はしりまはり造作し候よし候、命あらはひとたひくたりたきなりと仰候き。」

 

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