大広間
修復前
修復後
建設年代: 18世紀中頃(推定)一説に江戸時代初期
構造形式: 正面七間・側面十間半、入母屋造妻入、唐破風付、本瓦葺。
細部手法: 平面は側面二間の上段と同八間の下段に二分され、下段後方二間は矢来内とする。正面に広縁を設け、さらに三方落縁とする。組物唐破風部に出組あり。妻飾紅梁と板蟇又頂部はいのこ又首。
特 徴: 構成・意匠ともすぐれた建築である。本願寺型大広間形式の完成する前段階のものと思われ、貴重な建物である。
備 考: 上段の間格天井絵板裏書き享保六年三月九日(1721年)御家来7名連記
1984年6月 指定文化財・市指定 1990年3月 指定文化財・県指定
1618年には本願寺における正式な対面所が鴻の間として完成している。播州では、亀山本徳寺においてもその様式を踏襲して対面所(大広間)が造られた。建設年代は定かではないが、江戸の初期とみられる。天井画の裏に墨書された寄進者名には享保六年とあり18世紀の初期である。御坊格寺院においては、本堂とは別に大規模な殿舎を持ち、公的な対面または接客の場として大広間は重要な位置を占めていた。このような施設は単体では存在せず、客人を招く玄門を設け、籠寄を持つ格式のある大玄関、さらに北隣に控えの櫻の間を擁し、西に表書院と奥書院が続き、従者接客のための殿舎が完備されている。
内部は112畳の下段と18畳の上段に分かれ、上段の間には左から、付書院、大床、出入襖、帳台構が配置されている。江戸期には本願寺門主の下向、姫路城主の接応など公的な対面行事に利用され、帳台構の内には要人警護の人員を配置したとも言われている。このように封建体制下に外交行事が頻繁に執り行われたことが伺える。
上段の間を飾る欄間には十匹の鶴と松が彫刻され、壁画は極彩色の諦観図が描かれていた。格子天井の85枚の天井画が塡め込まれ、対面所としての雰囲気を保っていた。残念なことに、戦時中、陸軍の駐留所として強制使用されたため、これらの意匠の大半が損傷を受け、永く復旧が待たれていた。
半世紀後に、ようやく日本の建築文化が見直されるようになり、一九九〇年に大広間を含む本徳寺伽藍の文化財的価値が認定され、県の文化財に指定された。同時期に、本徳寺の第二期修復事業が発足し、一九九三年に屋根替えが施され、一九九五年には石川ヨシコ画伯に依頼して天井画が一新された。この天井画の構想が素晴らしく、五木寛之氏によって紹介され、多くの参観者が訪れている。
中央の大床に鎮座する鬼瓦は、古く、亀山本徳寺の前身である英賀御堂の下り棟に置かれた飾り瓦である。ダイナミックな面相と出来映えは、現代の人間国宝・故 小林平一氏をうならせた。記銘から英賀御堂は播磨灘海域の統領・三木通明(慶栄)の寄進によるもので、その作者は宗右衛門であることが分かる。後に、この作者が名工橘氏であることが判明した。
現在、この広間は毎年5月21日に宗祖降誕会が御坊麗姫会によって主催され演芸会が開催される。平時には、茶会が開かれ、落語会や音楽会などに多用されて、地域の文化活動新興に活用さている。
写真(上3枚)は修復前の上々段の間、上段の間、天井画である。
旧上段の構成や意匠は18世紀初めに完成した。礼室はかつて金碧濃彩の障壁画で飾られていて荘厳な雰囲気をもち、西本願寺対面所に比肩する意匠を示していた。
戦時中、陸軍の駐留が強制され移動部隊の兵舎として使用されたため、傷みが激しく、とくに天井画と障壁画は修復が不可能な状態に至った。これ以上の破損を防止するため、現在はとりはずして本徳寺の蔵に保管してある。
復旧前の写真からは、本願寺対面所と同様、極彩色の諦観図が上段一面に描かれ、当時の壮麗な雰囲気を伺うことができる。
このように戦時中の荒廃により本徳寺の真宗文化は壊滅的な痛手を蒙ったが、半世紀後、門徒の尽力により修復され、文化財として現代に引き継がれようとしている。