浄土真宗本願寺派(西本願寺派)

娑婆の修行

現代社会という娑婆世間では、オギャーと生まれた時が命の始まり、息をしなくなったら命の終わりと考える。生まれてきたら死んだらしまいの断見である。だから、命の限り何かに熱中することもあれば、やけっぱちになって人を傷つけたり悲観して自殺したり、一か八かの大罪を犯す羽目になる。なにせ死んだらしまいという固定見にとり憑かれているから、しかたがない。

仏教では命のとらえ方が世間の常識とはだいぶんに異なる。寿命のことを行年と言う。生まれてから死ぬまでを娑婆での修行と見るからだ。娑婆での生存を命の一部と見なす。教えには一人うまれ、一人去るとある。来る前と逝った先があるから、命は過去・現在・未来へと流れていく。

ところが、生きている間は自分にしがみつくからやっかいである。変化し移ろうことに意味があるのに自分は変わらないと固執する。だから生老病死は苦しみとなる。仏教ではこれを迷いとか無明とかいう。

仏の智慧の世界に入って、諸行無常(あらゆる事物は条件によって変化し永遠に変わらないものはない)を悟り、諸法無我(永遠に変化しない主体は我も含めて存在しない)を体得して初めて娑婆から出ることができる。これを命の本性を明らかにすると言う。

仏教の教理は単純明快であるが、生身の私はおいそれと納得がいかないのが現実だ。人は生活のためにいろいろ所業を興す。多くは自身の保全である、一見、人や社会のためと言いつつ、いざとなれば自分が一番大切である。そして、この見解は娑婆の常見である。

人との人の関係はギブアンドテイクがルールだ。しかし、芯が自分中心だから、無意識のうちに自分が有利になるようにルールは変更される。ここで利害関係がこじれて抜き差しならなくなる。とかくこの世は住みにくい。

この住みにくい娑婆世界で悪戦苦闘して、自分を見据えることができる。仏縁である。人の喜びがそのまま自分の喜びとなり、人の苦しみがそのまま私の苦しみとなる心境に気付いてくる。修行の成果が少しづつ私を変えていく。

2018/01/01

 

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