人間になること
「父母の精血を縁に、自らの業識に因って娑婆世界に生ず」たしか、親鸞聖人も引用されている。「私」という存在をみごとに解き明かした名言である。私たちは日頃、自分が生まれてきた由来や理由を考えることはない。むしろ、現実社会つまり娑婆では、触れないようにしている。命を生きながら命を知らない。それが娑婆の住人だ。終生、心底の深淵に気付くことはない。臨終に到るまで、右往左往して、ただ骨になるだけである。
人は生まれ出ようとする因があり、たまたま父母を縁にして、この私が身をもったということ。親子と言えども、今生の縁がなければ、別々の個人を生きることになる。しかし、仏教では縁から個人の本質を見る。親子の縁を成就して初めて親は親になり、子は子になる。人と人の間が構築される。この縁の完成事業を「とむらい」と言う。
縁に気付くのは出会いではなく別れである。別れを通して、後に残った者は命を知る。今まで共に生きた命、今まで身が邪魔して気づかなかった命をこの別れを通してはっきりと見据えることができる。残された者は、仏智をもって二つの命の関係を完成させる。これが「とむらい」だ。多くの「とむらい」を通して人は人間になれる。文明社会は「とむらい」を知らない無縁社会である。有能な個人を生産することは出来ても、人間は育たない。