新春敬白

新年を迎え、コロナ禍中ご心労のことと拝察いたします。本徳寺の業務もこの一年で様変わりをいたしました。行事はできるだけ密をさけるため縮小自粛し、ウイルス感染予防のための対策に腐心し、各種研修会やコーラスの練習はお休みさせて頂いております。

今年も、昨年末より近くの病院でクラスターが発生し、感染が身近に迫りつつあるようです。そのような状況下、リアルな人的交流のなくなったお寺ほど本当に寂しいものだとつくづく痛感しております。

しかし、その分、十分な時間をいただくことになると気を取り直して、この際に傷みの激しい障壁や危険箇所を改修し、さらには、従来のお寺の慣習を見直してポスト・コロナの時代に相応しい布教伝道・聞法求道のあり方を考えてみたいと思っております。

今年も祖師の大悲弘普化のご教示を肝に銘じ微力ながら進みたいと思います。各ご寺院におかれましては、ますますのご法義興隆を念じますとともに、ご教導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げる次第です。

 

 

仏教の方法とその真価

 

仏教は、このコロナ禍を縁に、人間の本性と正面から向かい合い、生きることの意味と経済の必要性を諸行無常と諸法無我の教えを通して見る。命と金が対立し両立し難いのは、「死にとうない」「金欲しい」という人間の本性を是とするがゆえに生起する問題であると知り、この解決に向けて稼働する。

人は生・老・病・死に直面して、自己の執着から生苦・老苦・病苦・死苦の四苦が生じる。愛着と憎悪、恐怖と安心から生まれる新たな四つの苦を含めて四苦八苦と言う。これの苦から逃れるため財を増やし、老を遅らせ、病を治し、死を避
けようとする。娑婆界の問題解決はすべてこの形態をとる。上手く行くときもあるが、対処療法であるが故にいずれより深刻な本質問題に突き当たる。

どうあがいても、老・病・死は必然である。娑婆界の諸行は老・病・死の改善に注力するが、仏教はここから生起する苦の必然をあきらかにして、老・病・死を行ずる主体そのものを問題にする。娑婆の分別による知識や認識では無理だか
ら、仏の智慧の世界で変革しようとする。

つまり、世界はすべからく縁起により成り立ち、自利自存の事・業は存在せず、互いに関係性をもってのみ成り立っていることが明確になる。だから縁起の自覚で「私」亀山本徳寺住職仏教の方法とその真価年頭敬白を見ると、色々な因と縁に依っていることがあきらかにされ、あらゆるものの「お蔭」と言う関係性を知る。

仏教はこの知見をもって執着より生まれる苦しみを無効にし、思いやりの心が間断なく生ずる。これがサステイナブルな共生社会の一つの提案となりうる。

例えば損得勘定で成り立つ娑婆世界では、他者への思いやりは余裕のあるときだけだ。自らが窮地にたたされれば喪失してしまう。しかし、仏の智慧の世界では、「お蔭」と言う関係性の自覚を通して、どんな状況下でも「感謝」と「思いやり」が実現する。この実践法を社会の人々に投じて、ポスト・コロナの健全な社会像と人間観を実現できることを期するところである。

亀山本徳寺住職 大谷昭仁

 

 

 

 

コロナ禍で思う釈迦の教え

 

年頭の挨拶は「丑年の縁起は芽吹きの前触れ」。「感染者数も収まり、めでたしめでたし」と思いきや。そうは問屋が卸さない。今年も我々はウイルスとの戦いに明け暮れるようだ。全世界で死者数は一七〇万人を越えた。そこにはその数十倍の「別れ」があり、縁深き者が故人と向き合うことになる。

年末、メディアでは「過去最多の感染」と連日連夜、恐怖を煽った。「医療崩壊」と医療現場の嘆きの声、政府は「ロックダウン」と「経済悪化」のデッドロックで機能不全。まさに娑婆の四苦八苦が満ちあふれていた。しかし、遠い先人もこのような「苦難」に立ち向かったはずだ。だれにでも訪れる老・病・死を先
哲から学ぶよい機会かもれない。

釈尊は無謀にもこの四苦八苦に真っ向から挑みその解決方を発見した。この方法は実に「現象へのとらわれ」から解脱された境地へと導く妙薬である。

釈尊の「苦」の解体作業は「すべては苦である事を認める」と説く「苦諦」から始まる。「苦」を見つめ分析し、「苦」の原因を探り、苦の諸縁を明らかにす
る。「集諦」がそれである。

法華経には「諸苦の所因は貪欲これ本なり」と説かれてある通り、人間の膨らむ欲望を求めてやまない心の状態を無明煩悩といい、所縁により暴走し、自らの苦しみを増大させ、他人にもその影響を及ぼすことになる。

いずれにせよこの「苦」の根本原因が分かれば次は、これを解体する方法を模索する。「心の持ち方を変えることによって、あらゆる苦悩は必ず消滅する」これを「滅諦」と言う。このように深い瞑想を幾度と体験して、最善の処方箋を発見された。それが四諦八正道だ。この実践的な方法を「道諦」と言い、根源的な「苦」の解体への道が開かれた。

このように考えると、今流行のコロナ禍においても、苦しみの原因は人の心に有り、仏教により、その対処が分かっているから。苦しみは増幅されることなく心理的パンデミックは起こることはない。コロナの増殖も人の苦もいずれ滅していくものだ。つまり元凶であるコロナウイルスから始まる人の苦しみの不用意な連鎖は常住のものではなく、常に流動変化するものである。これを釈迦は「諸行無常」と説いたのだ。

このコロナ禍の中で「苦」や「不安」と向き合ったとき、その原因が我の執着つまり無明煩悩にあることを自覚し、「苦」が一つの「現象のとらわれ」から生起するものであり、苦しみから脱却できる手立てがあることを仏法に学んで、コロナの感染が自らの日々の迷いを改めるきっかけになれば幸である。

副住職 大谷昭智