新年のご挨拶

新春を迎え、有縁の皆様におかれましてはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。また、平素より本徳寺の護持にご留意いただき、深く感謝する次第でございます。

昨年は伝灯奉告法要の影響か、組単位の参拝で大あらわ。息をつく隙もなく映画ロケ撮影が二本入り法務は休止。古刹巡りの来訪者が御朱印をもとめて殺到。需要に応えようと参拝記念証を作成し対応しました。いやはや異例の一年でした。

今年は播州の真宗興隆のため本徳寺の役割を見据え努力する所存です。本年も宜しくお願いいたします。

本徳寺住持 大谷昭仁より

大学を離職してから二回目の正月を迎えた。両親を送り、子供は自立、孫と出会い、家族の構成も大きく変わった。その間、糖尿病や前立腺がんの治療が始まり、老病死の身体を実感した。もう若くはない。当たり前だと観念した。

そんな中、インカムのないボランティア職を仰せつかった。連合仏教会の会長や姫路揚善会の理事長など、年を取って職を辞したら、できる限り引き受けろとの前住の遺訓にしたがった。これから好きなことができると思っていた矢先である。娑婆はなかなか思い通りにさせてくれない。

さて、昨年下半期は、団体参拝の対応に大いにエネルギーを費やした。平生から本徳寺への団体参拝は年間七十件ほどあるが、ほとんどがお寺単位の参拝で、三十から四十名程度。気軽にこなしていた。しかし、昨年夏頃から、組や教区単位の参拝が殺到しだした。あるときには一日に三組、しかも一組二百から三百名と規模が大きい。一人では対応できず、応援を必要とするほどだ。本山の継職伝灯行事の関係や姫路城開城の影響もあるかとおもうが、今までも同様な本山行事を何度か経験したが、今回は異様である。

法務の方は相変わらず、一般寺院の門徒が、昔からの習慣に従って、永代経や納骨、一座経などを依頼してこられる。播州各地の本徳寺の世話人からの執持も続いているが、いずれも件数は減少の一途をたどる。既に依頼懇志によって賄う年中行事の会計は以前から大幅な赤字である。戦後の変革により、本徳寺には所属門徒がないから当然といえば当然である。行事の規模を縮小してでも何とか続けたいと思っている。

一方で、今までまったくお寺と関わり合いのない人がアクセスするようになった。寺院巡りの観光目的で来られる人、檀家寺のない人が葬儀や法事を依頼してこられるケースが数は少ないが増えだした。中には葬儀をしないで納骨にだけ来られる人もある。これらの人には従来の伝統的な法務ではうまく対応できない。

布施という概念を持合わせていないから当然であるが、読経というサービスの対価として料金を明確にすることを求められる。そこでは、仏教の教えからお寺の役割、そこで執り行われる法務の内容まで、何から何まで説明しないと始まらない。時代と共に激変する社会環境の最前線に本徳寺は立たされている。日々、一般寺院とはことなる対応を逼られ、試行錯誤を繰返しながらの諸行である。

そういうわけで、この一年は、新しい生活環境に順応するのが精一杯。息絶えるまで生死を生きるのが念仏者の務めらしい。

誰が決めたか、娑婆のルールで年が変わる。お寺もこのしきたりには逆らえない。歳神信仰は根強く世間を動かしている。逆らうより慣れろという脅迫感は毎年この時期に繰返される。どこのお寺でも除夜会と元旦会は勤めるらしい。昨年も多くの方が鐘撞きに来られた。普段、仏法とは無縁の人が多い。鐘打後、本堂では甘酒とお屠蘇がふるまわれ、元旦0時からの晨朝勤行に参加される。果たして、どれほどの人が、年変わりが娑婆のしかけたリズムであることを悟るのだろうか。「正月や、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」とは一遍上人の一句を心にとどめたい。

鐘を突いて厄をはらい、新年を迎えて益をもらう。本来一体の生死を分けて、生を求め死を遠ざける。迷妄の世を生きる者の本性である。わかっちゃいるけどやめられないのが落としどころか。真宗のお寺で勤める除夜会は、一年の心口意の反省であり、元旦会は新しいいのちを精一杯生きることの決意である。

特に高齢者の余命は幾ばくも無い。生死と言う虚妄分別を離れて浄土のさとりにいたる「後生の一大事」を目前にして、老後をゆっくりと好きなことをして暮らすなどと悠長なことは言っておれない。

本徳寺副住持 大谷昭智より

「仏説阿弥陀経」の中に“白鵠- 孔雀- 鸚鵡- 舎利- 迦陵頻伽- 共命之鳥”と六種の鳥が出てくる。どれも神聖な鳥である。これらが仏法僧の三宝を奏で浄土を荘厳しているとされている。

六鳥の中で浄土でしか生きる事の出来ない鳥が‘供命鳥’である。別々の心をもつ双頭の鳥である。ガルーダとウパガルーダと名付けられた二つ頭の鳥は、ことごとく対立し、互いを憎しみ傷つけあい、ついには一方を殺してしまう。体は一つだからやがて殺した方も絶命に至るが、その事態を見て「自他一如の縁起の道理」を悟り、浄土に生まれたと言われる。

仏教はたくみな比喩をもって説かれる。生まれながらに対立し、争いを常とする二つの頭は何を意味しているのか。

娑婆の世界では、ことあるごとに対立する概念をこしらえ、選択しながら生きていく二律背反の世界である。善と悪、敵と味方、生と死、浄と穢など何でもいい。人間の知性のはたらきはこの対立概念で分別の世界をつくりだす。

それだけならよいが、そこからが問題だ。自分に都合のいいものを是とし不都合なものを否とする。この意に捕らわれると。次ぎに、都合のいいものを貪り、都合の悪いものを抹殺しようとする。しかし、現実はそうはいかない。そこに苛立ちと怒りが生じ、苦悩が発現する。

すべては分別したものに自らの執着が加わって抜き差しならなくなる。このような人知の性を双頭の‘共命鳥’の物語は教えるものだ。

そして大切なことは、‘共命鳥’自身がこの自縛の業を脱して、「自他一如の縁起の道理」を知り、浄土の鳥となったことである。浄土の鳥になっても双頭の型は変わらない。「不断煩悩得涅槃」が浄土の悟りである。

今年の干支は酉である。浄土の鳥のみならず、実世界にも様々な鳥がいるが、渡り鳥は大変だ。越冬の為の備えが無ければ渡れない。半年かけて準備をするという。準備万端整えても、悪天候や特殊な事情で旅立てないこともしばしばだ。これを「迷鳥」と言う。発見されると珍しさあまりにバードウォッチャーの人気の的になる。

基本、備えがあってこそ物事はスムーズに進む。人も鳥も同じである。人にとって旅立ちは「死」である。これに対する備えは、大丈夫か。死は古い生の終点と同時に新しい生への出発点である。死のない生もなければ生のない死もない。仏教では「生死」を切り離せない一つのものと考える。だから仏縁を生死出離の縁という。新しい生のことを「後生」という。蓮如は「後生の一大事」とおっしゃった。「後生」に気づき、迷いの「生死」に正面から向き合い、悟りという浄土への旅立ちに向かわせるのが仏教である。

人は娑婆世界で、様々な困難に悪戦苦闘しながら生きる。いずれは絶たねばならぬ「迷いの世界」にどっぷり浸かって生きる「迷鳥」である。「迷鳥」はバードウォッチャーにもてはやされ、居心地がよくなる、悪い気はしない。この「慣れ」の術中にはまると、もう動けない。旅立つ自分が見えなくなる。

しかし、人は必ず縁のある他者との「別れ」を経験する。他者を見送った自己は「自己の死」を考えざるを得ない。中には「後生」への旅立ちが強く意識される。見えなかった自分が少し見えてくる。「覚醒」である。たまたま、これに気づいた者は、旅立ちの備えをせねばならぬことになる。

近年、高齢者の『終活』がメディアで話題になっている。元気なうちに「整理」「介護」「葬儀」「埋葬」「相続」などの準備を生前にしておくことらしい。なるほど、あとの者に迷惑をかけないためには役立つかもしれない。しかし、旅立ちの備えを用意周到整えながら、どこへ旅立つのか。肝心な「後生」のことが抜けている。

本徳寺坊守 大谷美子より

さて、今年は酉年。

昨年内陣のお給仕の最中に、前卓のみごとな彫刻の中にたくさんの鳥たちがいることに気づきました。調べてみると、単なる装飾ではありません。一つ一つの鳥が阿弥陀経の中に細述されています。

阿弥陀経はお釈迦様が弟子の舎利弗に浄土のさとりを説かれたお経です。お浄土の描写の中に白鵠、孔雀,鸚鵡、舎利、迦陵頻伽、共命鳥、の六鳥が出てきます。それぞれに役割があり、昼と夜に三度ずつ優雅な声で鳴き、浄土の菩薩に、五根五力(道を信じて精進せよ)、七菩提心(七つの行を励んで正しい悟りを得よ)、八聖道分(仏道を修める八つの行を忘れてはならぬ)の教えを奏でるそうです。お釈迦さまは、これらの鳥は阿弥陀仏が教えを伝えるために、色々と形を変えて遣わされた功徳の働きであるとおっしゃいました。

仏様のはたらきはお浄土だけではありません。我々が苦楽する生死の迷界でもはたらいておられます。禅宗で有名な「十牛図」の中の「入鄽垂手」や、真宗でいう「還相回向」がそうです。仏様が衆生済度のために全く別の姿になって娑婆に降りてこられるという見方です。私達は何かに苦しんでいるときや、他人とうまくいかないときなど、相手を恨んだり、投げやりになったりしますが、その時に気持ちを切り替えて、これは私に何かを気づかせんがための仏様の働きみるのです。このように思わせて頂くと、ありがたく、うれしい気持ちになり、頑張れるような気がいたします。

昨年十一月に、コーラス部の方々と私の出自のお寺の報恩講にお参りさせて頂き、本堂で佛教讃歌を歌わせていただくことができました。六月ごろからその交渉にあたり、あちらも忙しいのに迷惑かなと、不安に思っていました。当日、歌った後の温かな拍手が、阿弥陀様の手の中にいるような気持にさせて頂き、本当に有り難かったのです。ああ私はいつも誰かに見守られていると思わせていただいたのです。

今年も「大悲無倦常照我」の気持ちを忘れず、頑張らせて頂こうと思っています。どんなことがあっても自信をもって一緒に手を合わせて参りましょう。