大門
建築年代: 宝永六年八月(1709年8月)
構造形式: 一間一戸脚門、切妻造。本瓦葺
細部手法: 普通の四脚門で、控柱は几帳面方柱である。物組三つ斗。
中備蟇又、側面は板蟇又。妻飾紅梁大瓶束笈形付。
特 徴: 細部の彫刻に幕末特有の意匠がある。
備 考: 1984年6月 指定文化財・市指定
2003年3月 県指定(二枚の棟札を含む)
2000年4月より、大門の修復が始まり、5月下旬、屋根部の解体に際して、棟木に貼り付けられていた棟札が発見された。これにより、今まで史料に乏しかった、本徳寺建造物の建立経緯の一部が明らかになった。
棟札は幅14.5センチ ・ 長さ145センチ ・ 厚み1.8センチの檜製板で、同型の2枚板を重ね、内側に由来を墨書で記銘してあった。堅く重ねて棟板に釘留してあったため、300年程経過しているにもかかわらず、内側の面に書かれた墨書は鮮明で、明確に読み取ることが出来た。同時に、大工道具(キリ・ノミ)や寄進の同行地名を書いた木切も見つかった。
これによれば、大門は、1709年7月22日に上棟し、8月には完成したようである。建立は2年前に起こった、宝永の大地震(1707年10月28日)で、寺の建物に被害は及び、広間や書院、大門などが大きな損害を受けた。1699年1月27日に入寺された寂宗公が、播州の各寺院をめぐられ、再建の協力を求められたらしい。この事実から本徳寺の建物に相当の被害があったものと思われる。
従来、大門の建立時期は古老聞書により、嘉永年間(1848~1854)と推定されていた。棟札の発見により、一挙に140年程、建立時期が遡り、今から300年程前に建立されたことが分かった。
しかも、大門再建後、大広間、書院が修理されたという記述から、広間や書院が以前から存在していたことが判明した。
伝承では本徳寺の建物は、元禄の頃に伽藍形式が整えられたと云われ、疑問視されていた。しかし、広間や書院が宝永地震以前に建てられたことから、元禄説はほぼ間違いないと思われる。
その後、148年後の1848年から1855年にかけて安政の大地震が起こり、本堂が大破した事が記録に残っている。
更に140年後の兵庫南部地震を考えると、播州地方は地震が少ないと云われているが、実際には、約150年周期で巨大地震がこの地を襲い、寺院の頑強な建物に被害を及ぼしている。記録は皆無であるが、一般家屋には相当の地震被害があったと推測される。
大門札解読
< 表 > 四足御門上棟 丑七月二日也
< 裏 > 播州餝西郡亀山英賀本徳寺第八世寂宗公本願寺御門主寂如上人
為猶予入院巳後當國一派之寺廻寺有之也因茲當御門始廣間書院
及大破且經臓之建立之企先々披露有之仍而貫物以到来先此御門如欺
建 立: 干時寛永禄巳丑年八月吉日
目隠し塀
建築年代: 18世紀頃(推定)
現在の塀は、1962年に、旧来の目隠し塀を復元して造られたものである。
構造形式: 塀長六間、一文字塀
特 徴: 近世において、大名行列等の不礼の通過を可能にするために用いられ院家寺院の格式を示すものであった。
一文字塀は通称目隠し塀とも呼ばれ、外から内を覗くのを防いでいる。大通りに面した格式のある神社仏閣に設けられることが多い。本徳寺について、その格式の歴史的由来を調べてみると、遠く、1559年の院家勅許にまで遡る。
16世紀に本願寺は純然たる民間勢力として中世社会に君臨するが、朝廷は本願寺に対して門跡の寺格をもってこれを認め、同時に、脇門跡一ケ寺と門跡の与力として院家寺院九ケ寺を指定した。この院家の筆頭が本徳寺実円(三河本宗寺兼務)である。この時以来、正面の築地の役瓦には五七桐紋を、大門には菊紋の使用が可能になった。このことは民間勢力としての本願寺が公的性格を持つことを意味し、この認定が後の石山戦争の敗戦による徹底的な教団の消滅を不可能にした一要因でもある。
この寺格が、英賀から亀山に移転後、近世になっても有効であった。正面大門に面した飾磨街道は飾磨津と姫路城を結ぶ重要な交通路であった。ここを横切るものは、下馬をして礼拝するのが慣例とされ、交通量の多いときには渋滞に繋がる難所となった。その障害を回避する意味も兼ねて目隠し塀は作られたらしい。