本堂
建築年代: 元文三年(1738年)宝珠柱名
構造形式: 正面九間・側面十一間半 三間向拝付 入母屋造・本瓦葺妻入
細部手法: 平面は後門式で、外陣(7間×7間)がおおきく、外陣の三方に広縁をつけさらに落縁を回す。落縁の端にも柱を立てる。内陣横に矢来内を設け、内陣横に余間、更に落間を設け、後に後陣を付す。組み物も場所により船肘木・平三つ斗・出三つ斗・出組と使い分け、中備も蟇又を主として、大瓶束なども用いる。欄間や紅梁等の彫刻や、極彩色などに特徴がある。軒も吹き寄せまばら垂木である。大規模な真宗寺院本堂の代表的建築として重要である。
特 徴: 1870~1873年に、西本願寺北集会所を移築(本願寺資料 「本願寺史第二巻」 [本願寺史第三巻:])
下り棟棟瓦記銘に享和二年(1802年)紀州鷺森御坊講中・河州無量光寺門徒中とあり本願寺阿弥陀堂瓦と同じ刻印がある。京都時代に一時新撰組の屯所として使用、刀傷を柱に残す。本徳寺本堂の向拝欄干の疑宝珠は「芥田」の作で年代銘記(1738年)・同じものが蓮如堂北の欄干にある(旧本堂からの転用の可能性もある)旧本堂は1868年に焼失。旧本堂はさらに大きく、桁行十九間・梁行十五間である。
備 考: 1984年6月15日 指定文化財 市指定 1990年3月20日 指定文化財 県指定
本徳寺の本堂は兵庫県下における最大の仏堂で、様式的にも18世紀を代表する優れた建築である。
安政二年(1855)の地震で本堂が破損し、四年後に本堂の再築が進められた。しかし、明治元年(1868)に大工小屋から出火し焼失した。西本願寺は本徳寺の事情を憂慮し、明治六年(1873)に本願寺の北集会所を本堂として本徳寺に譲り渡した。本堂としては珍しく妻入であるのも、集会所の当時から妻入形式の仏堂であったためである。内陣正面の扁額(中央下写真)はこの時の門主・広如上人の直筆による。
本願寺の北集会所の建立については詳しい事はわかっていないが、本願寺の史料によれば仮御堂として使われ寛政四年(1792)には存在している。その後、慶応元年(1865)から同三年(1867)まで、新撰組の屯所になったという記録が「明如上人伝」「本願寺史」にある。そのような歴史的事実があったため、2004年にNHK大河ドラマ「新撰組」のロケにも使われた。
この本堂は本願寺の伽藍を構成する主要な建築であり、かつ江戸時代後期の京都における、浄土真宗の大規模な仏堂の一つである。移築の際、増改築を行わずそのままで建てられたらしく、その折の改変の痕跡は見当たらない。従って、この本堂は亀山本徳寺の本堂であるというだけでなく、西本願寺の伽藍の変遷を知る上でもかけがえのない遺構であるといえる。
内陣は、左右に24畳の余間を控え、二間四面の中央板間より構成されている。内陣中央、阿弥陀仏立像は観経の空中住立尊の尊形を整え、方便法身尊像の形相を顕しておられる。右脇壇に宗祖親鸞聖人の等身真向きの御影を安置し、左脇壇に本願寺歴代二代・如信上人から順次、顕如上人までの連座御影が双幅安置してある。この両脇壇の安置御影を通して、中世本願寺の歴史的完成を視覚的に表現している。
真向きの御影は、裏書きより1612年に准如上人より下附されたことが分かる。これは、石山戦争によって本願寺教団が解体された後、新らたな東西両本願寺体制を形成する過程で、播州の真宗勢力が西派に帰属したことを示したものである。後に、1618年には東派の中核・船場本徳寺が発足し、播州でも東西体制が整備された。
右余間は、内寄りに宗祖親鸞聖人が和国の教主として仰がれた上宮大師(聖徳太子)の御影が懸奉され、外寄りには宗祖の読み解かれた七高僧の系譜が安置されている。左余間には、帰命尽十方無碍光如来と南無不可思議光如来の光明尊号が並立に安置され、南無阿弥陀仏の功徳を表象している。何れも本徳寺と縁の深い本願寺・寂如上人の下附による。
外陣の広さは真宗が在家仏教であることをよく物語るもので、200畳の畳が敷かれ、さらに外周は一間乃至一間半の広縁を巡らし、さらに半間の落縁をもうけ、播州一円の門徒の参集を可能にしている。今に至るまで、日々、某かの門徒が絶えず手を合わすようすを伺うことができる。
※文化財指定書より一部引用