お墓と納骨の有り様は、人口と土地の問題である。人が多く生まれれば、当然、沢山の人が死ぬことになる。人間は他の生き物と違って死者を独特の死生観をとおして扱う。そこで注目されるのはお墓である。日本では、古代より有力者の陵墓や廟が造られ、その時代の副葬品と共に埋葬され、歴史の重要な史料ともなってきた。しかし、一般庶民の墳墓は、葬儀や法事などが一般化する室町時代からであると推測される。
戦国戦乱の時代が終わり、徳川幕府による統治体制が整った頃、全国から門徒の本山参りが始まる。このころから本願寺・大谷廟への寺院や門徒の墳墓や祖壇納骨がはじまったようである。同じ頃、本徳寺も英賀保・山崎山に本徳寺歴代墓所として西山廟所を開設し、限られた有縁寺院や門徒の墳墓が営まれるようになった。調査記録に依れば享保・元禄頃から一般門徒の利用が始まったが、江戸時代の人口の停滞から考えて、廟堂周辺に墓域は限られていた。
墓地の大規模な増加が起きたのは明治以降である。江戸期に約三千万をキープしていた人口数は、西洋近代化の影響でこの一五〇年あまりの間に四倍以上の人口爆発をしめす。とりわけ戦後、都市人口が急激に増加する高度経済成長期に墓地ブームが起こった。この社会的需要を満たすために、姫路市が経営する名古山霊苑の営業も始まった。本徳寺も墓地の整理や造成事業を行い、その需要に対応した結果が現在の墓地の全容を物語る。
この時期に多くのお寺で墓地の開発がはじまった。都市部では地価が跳ね上がり、一戸建ては無理で、マンションの建設が中心になった。これと同じ市場構造を反映して、お墓も縦の空間を利用する納骨堂の時代に突入した。本山本願寺でも別院でも納骨堂が建てられ、永代供養の名目で積極的に遺骨の受入れに対応した。今では都市部の一般寺院に納骨堂を持たないお寺を探すのが難しいほどである。核家族化と建墓費用の高騰で、家墓の存続が出来にくくなると、安価な遺骨の管理が必要になってくる。納骨堂が手軽なお墓の代用を果たすことになったわけだ。
今や寺院経営もマネジメントのセンスが求められている。マンションは耐用年数を設定して、長期のマネジメントが専門家によって計算されているが、納骨堂の永代管理はほとんどそのような考慮はされていない。いずれ構造物は寿命を迎える、永代管理を約束した寺院は将来そのメンテナンスに苦しめられることになる。目先の需要に踊らされて骨事業に参入すると大変なことになる。本業の布教伝道は殿堂入りして僧侶は事業経営者となり、お寺は時代に飲込まれていく。この様にしてお寺は今までに経験の無い大きなリスクを背負うことになる。
本徳寺でも例外ではない。三〇年前に総工費五〇〇〇万を掛けて無縁墓の整理を余儀なくされた。西山廟所を開設した当初はそのようなリスクを背負うとは誰も考えなかっただろう。本格的な総墓納骨は、名号塔の設立経緯から見て明治以降に始まったらしい。爾来、近傍の西派門徒の総納骨所として、その役割を果たしている。
納骨は、本坊でも廟所でも受入れをしているが、いずれにしても、廟所に設置された名号塔の下に埋設される。明治期に始まった本坊納骨は、当面須弥壇に安置され、時期をみて戦後に建立された浄華堂に合葬される。最終的には西山廟所に移されて土に戻される。真宗における遺骨の扱いは至って単純明快である。宗祖が自らの亡骸を鴨川の魚に食わせよと言い残したと言われているとおり、遺骨を崇拝したり、霊魂の依代とはしない。娑婆のものは娑婆に返すのが習わしである。この精神に基づいて本徳寺の納骨は続けられている。