何か目的があるわけでもないのに、いつも来訪され、本堂の広縁で物思いにふけっている人をよく見かける。一度、声をかけて本徳寺を訪問される理由を聞いてみたことがある。門をくぐって一歩境内に入ると異次元にタイムスリップしたように感じると言う。なにか大いなるものに包まれて、心がこの上なく落ち着くというのだ。お寺の維持管理に追われている者にとっては感覚が麻痺しているのだろうか、言われて初めて気付かされることである。
確かに境内は明治以降の所謂近代的な施設や装備は皆無であり、天空には目障りな電線も見当たらない。太陽の日射角の変化にもとなって、伽藍のたたずまいが徐々に変化し、冬の雪化粧は朝早く晨朝勤行に参詣する人を凜とした浄土の観相に導く。境内の植生は、四季折々の景観をみごとに演出してくれる。寒梅の花が咲き、本堂の南の桜が一斉に咲き誇り、新緑の頃には色濃い緑に包まれ、やがて、玄門脇の巨大な栴檀が境内を香しいかおりで充たす。秋には実を付けた銀杏が黄色い絨毯を引き詰め、真っ赤な紅葉が彩りを添える。諸行無常・諸法無我の境地に一瞬触れる事ができる。
古くからの肌触りのよい厚板の広縁は心地よい風の通り道である、お堂の重たい障子戸をあければ落ち着きのある畳が広がる。この本堂で幾多の人々が仏説を聴聞をし、自らの後生の一大事を見据えたのであろう。お寺はそういう歴史的背景を背負って現代人に何かを訴えかける。考えれば、街の騒々しさから隔絶されたお寺の時空間は、忙しさに翻弄され続ける現代人にとっては緊急避難場所でもあり、街中では得がたいヒーリングの場なのかもしれない。
最後に、このような寺院環境が本徳寺の仏教婦人会である「麗姫会」の献身的な奉仕活動やお寺に心を寄せて下さる近傍の方々の積極的な働きによって維持されていることを忘れることは出来ない。