葬儀や法事が真宗寺院の専業になったのは、やはり江戸の中期以降である。檀家制度と深く関係していることは想像できる。それまでは、念仏集団である同行の長老が仕切っていたはずだ。天台・真言では、宗派の高僧の臨終作法を範として、簡略化されて葬義の法式として早い時期に民衆の間に広まっていった。真宗は儀式の典礼化はおくれ、本末関係・檀家制度の社会的定着をまって、他宗にならって檀徒が檀家寺への帰属性を明確にするため葬儀や法事を僧侶が扱うようになった。
法事の初見は持統天皇の一周忌に見ることが出来る。奈良時代は一周忌しかなかったが、鎌倉期には三十三回忌が表われ、室町期には現在の三十三回忌までの複数回にわたる年回法要が一般化した。いずれにしても年忌法要の習慣は日本民族のいにしえの他界観が仏教技術と習合して生み出したものだ。元々太古の日本民族が持っていた、死への畏怖が貴族社会では怨霊思想につながり、その鎮魂と慰霊の手段として先進的な仏教技術が取り入れられたようである。これが中世以降、庶民の間でも広がり、先祖との一体感を醸成しながら先祖供養のかたちとなって定着していった。
鎌倉新仏教の登場は、太古の死の本能的な畏れに由来する霊魂やその災いを一掃し、個人の自律的生命の自覚を促すものであった。特に親鸞聖人は慰霊や鎮魂のための手段化された仏教を否定し、念仏による自らの成仏を目指す信仰に転換させた。今や真宗の門徒に古の「おかげ」と「たたり」の呪縛があるとは思えないが、精神基盤にある慣習への恭順、先祖との連続性や一体感の希求、自らのアイデンティティのよりどころとして、はたまた家長的立場の義務感などが絡まり合って、かたちを変えながら今の葬儀・法事のニーズを生み出している。
本徳寺にも年忌の法事は戦前から播州一円の門徒の要望が多かったことが記録からわかる。いまでもこの習慣が廃れないのは不思議というしかない。大概は三十三回忌か五十回忌で終わりにしている。五十回忌以上を勤めることがあるが、寺院の歴代法要のように特別な場合を除いて、一般在家ではまれである。
法事では三部経の読誦が定番であるが、現代の仏教に無知な参加者にとって退屈きわまりないのが実情だろう。最近は、読経は簡素化され、わかりやすい法話をそえるのが一般化している。それでも年忌の法要が無くならないのは、ひょっとして、民俗学が言うように、死者への慰霊・鎮魂を、仏事の供養を通して先祖神に浄化する原始の思いが生きているのかもしれない。
葬儀においても同様な経緯をたどって変化してきている。仏教が日本に輸入された当初は死者の荒御玉が物の怪となって及ぼす厄災を防御するために、古い呪術的仏教に鎮魂と慰霊の効用を求めた。
宗祖は「親鸞におきては、父母の孝養のためにとて、一辺にても念仏申したること候はず」と歎異抄を通して言い切った。冥土の迷いの中にある故人がいれば、まず自分が悟りを開き仏となって救え、と極めて合理的な発想である。真宗では仏教を手段とせず、当人の念仏往生をもって仏教の筋をとおす。念仏の功徳をもって主体的に浄土の悟りに至る手本を、先達が、残された我々に伝えていると捉え、我が往生のための大菩提心を自覚すること以外に真宗葬儀の本源は見いだせない。道綽禅師の「先に生まれん者は後を導き、後に行かん者は先を訪え」のとおりである。
しかし、生前に仏壇に手をあわすこともなく、仏法の聴聞もない者に、この見立ては通用しない。残念なことに、多くの葬儀がこのような状況下で粛々と執行されている。遺族や会葬者にとって僧侶の行う読経は死者の供養という意味しか持たない。死者の冥福を祈願することが社会通念として存在するかぎり、皮肉なことに、その需要を充たすことが業務資格を有する僧侶の社会的な役割となってしまった。この社会的ニーズに安泰を決め込むと、寺院経営のため、仏法の本義に目をつむり、社会的役務を黙々と遂行せざるを得ないことになる。真宗の葬儀がなんとなく建前的で簡素で消極的にならざる終えない理由がここにある。
しかし、大切なのはここが仏教への入門の場であることだ。会葬者にとって、お経は意味不明の呪文かもしれない。しかし、読誦する僧侶の経に向かう態度は、心口意を通して、ただごとではないことを伝えることができる。会葬者の中に、今までお経について無知であったけれど、何か大切なことが書かれているようだと気付く人が現れることだ。仏縁の発起はなによりも僧侶の自信教人信にかかっている。