年中行事はもとより、布教大会や団体参拝をはじめ月一回の御坊の楽市楽座や淡交会の茶会など大勢の人が出入りする以外は至って静かなお寺である。本徳寺は檀家寺ではないため、固有の檀徒はいないが、それでも、播州一円から参拝者が昔からのしきたりで参拝して来られる。その多くは、お寺で葬儀の後、遺骨を分骨したり、永代経を奉納したりと法務が頻繁にある。最近では、檀家制の崩壊によってお寺と縁のなくなった人々が、葬儀や忌明け、年忌の法事などを依頼して来られることがある。
本徳寺の一日は朝の仏事から始まる。朝六時に梵鐘が響き、大門の環貫が抜かれる。午前七時に、お内陣の十枚のお扉が開かれ、輪燈に明かりが入り、燭台にお蝋燭が灯される。上質のお香が焚かれ、新しいお仏飯がご本尊をはじめ、親鸞聖人、七高僧・聖徳太子御影に供えられる。午前七時すぎ、朝の静寂を打ち破るかのように行事鐘が連打され、いよいよ晨朝勤行の始まりだ。そのころには近隣の方々が数名外陣に着座している。行事鐘の最後三打をもって、内陣の鑿が二音、調声の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」が発音されると正信偈の唱和が本堂に響き渡る。
普段は草譜だが、本願寺と本徳寺の歴代の命日には行譜で勤めることが慣例になっている。正信偈と繰り読みの和讃が終わると、永代祠堂経を開闢された方に代わって仏説阿弥陀経一巻が上げられる。本堂勤行の後、蓮如堂で讃仏偈を勤めて、当日の和讃の内容説明とその法話が施される。最後は、内道場で重誓偈をもって止息する。
このようにして本徳寺の尋常法務は毎日毎日、雨の日も風の日も、三六五日休むことなく勤められる。正信偈・和讃の繰り読みは、蓮如上人によって始められた本願寺独特の作法である。親鸞聖人のお言葉を自ら発音し、この声を聞いて一字一句の意味をかみ締めることができる。不思議なことに経・論の文章だけは何度聞いても新しい趣を発見する。ことに名号を称えさせてい
ただくとき、その高揚感は筆舌に尽くしがたい。最後に、回向句を称えさせていただいき、今日一日、娑婆世界で生きる自己の意味を新たにすることが出来る。この一連の勤行作法は礼拝、観察、称名、聞法、報恩といった浄土真宗の仏供養の一部始終が篭められていることにつくづく感心する。
さて、土曜と日曜は特別の日となる。朝事に参集した方々が集まり茶話会が催されるのである。限られた時間ではあるが、この時は差し入れのパンやお菓子を前に雑談を交えて、お互いの心境を披露し、法談に花が咲く。突っ込みもあればぼけもあり笑いが絶えない。メンバーはいろいろ替わる。男女を交え、若者から八十を超えた老人まで、バラエティに富んでいる。話はなかなか尽きない。蓮如上人は御文章のなかで門徒に「物言え物言え」と勧めている。また「もの言わぬは恐ろしきことなり」とまでおっしゃっておられる。
いろいろな心境を披露することによって、人からいろいろ指摘される。批判は大切なことだ。時として誤解や自分の勝手な解釈に安住していることがよく有るからである。
法義談合して始めて人から教えられ、また人に伝えていく事の大切さを蓮如上人はよくよくご存じであったに違いない。