浄土真宗本願寺派(西本願寺派)

霊魂から「いのち」の自覚へ

さて、身近なところで、お寺での納骨や年忌法要を考えて見よう。今や真宗の門徒に古代の「おかげ」と「たたり」の呪縛があるとは思えないが、言葉の端々に先祖の供養が顔を出す。法事の願主の挨拶には、これでやっと責務を果たし、肩の荷が下りてホッとしたという安堵の言葉が聞こえてくる。

願主の感じる責務とは何か。代々家長が檀家制度下で社会的に強制されてきた慣習を自分も果たしたと言うことか。肩の荷が下りてホッとしたという言葉の背後には、先祖に対する慰霊の義務感から解放されたという安堵感があるのだろうか。あるいは無意識の内に、先祖との連続性や一体感を希求し、自らの存在価値を確認できたことによる安住感なのだろうか。近親者間において人間関係は濃密であるが故に、不行き届きな所業を自覚して、何らかの後ろめたさを持つのが当然である。その解消を為さぬまま死別を迎えると、残された者の心は落ち着かない。そこで、供養は孝養の意味で丁重に尽くすことになるのかもしれない。人の迷いとはやっかいなものである。いずれにせよ、霊の浄化は、かたちを変えながら今の法事のニーズを生み出している。

お寺の言い分を吐露すると、法事とは慰霊供養から仏供養への転換という大変エネルギーのいる行為である。もっとも、社会的な求めが有るから、慰霊行為であろうが何であろうが檀家さんの要求通りその需要を満たすためにそつなく黙々と江戸時代以来の業務をこなすという側面があるが、この法務作法の現場がお寺の貴重なスタートラインである。この現場で、上から目線で、諸法無我、諸行無常を説いても遺族には空虚な響きしかない。

さらに一歩踏み込んで遺族のやるせない心境に飛び込んで、「いのち」という言葉を切り口に仏事の意味を説明することだ。今では「いのち」という言葉ほど近年の宗教者が口にし、陳腐化したものはないが、生きていることの本質を呼び起こすには最適の言葉である。しかも、死別の時に、この言葉ほど存在感をもつものはない。「いのち」の重要なポイントは一人では完結しない概念であることである。それは人と人が真剣に関わり合うことによって生ずる共感体験が基盤となっている。

戦後の個人主義教育のなかでも「いのち」の尊さを教えるプログラムが用意されているが、大きな欠陥を持っている。他者の「いのち」の尊さを自覚させるために、まず最初に自分の「いのち」の大切さを教える。その後で他人も自分と同じ大切な「いのち」をもっているのだから、他人の「いのち」も大切にしようと教えるのだそうである。

この「いのち」の見方はまったくの間違いである。なぜならそこには共感がない。個人の自覚と自立を最初に持ってくるから、他者との関係は後になる。せいぜい自己の妥協を踏まえた他者との協調が精一杯である。下手をすると、自己の「いのち」に価値が見いだせねば、他者の「いのち」もないがしろにすることになる。近年に多発する無差別殺人や通り魔事件の背景はこの辺にあるのではないかと思うくらいである。

「いのち」とは自他が共に心的交流を重ねる中で、対象化が困難な共感によって実現する価値である。もっと言えば相手の心底の苦悩を知り、その全存在を理解し許しあったときに起こる絶対的な信頼感を伴って起こる相互認識の対人感覚である。

親子・夫婦・兄弟・知友の関係も「いのち」を実感として共有することができる可能性を持った大切な関係である。従ってこの「いのち」感がなければその関係は完成しない。このことから、人は娑婆世界で自分と言う壁の中で保身しているかぎり「いのち」は分からないことになる。

法事の後では必ずこの「いのち」の話をすることにしている。親子だから夫婦だからといって普段の生活の中で「いのち」を共有する関係に気付くことは難しい。死別を通してその本来の関係に気付くことが関の山である。

残る者と往くものとの別れで既に幕は降りた。しかし、生き死にを超えてはたらく仏の智慧をたよりに「いのち」の実現が可能であることが少しずつ了解されてくる。死別というどうしようもない断絶を通して経験するからこそ、大いなる仏の「いのち」を媒介に、行った人の「いのち」に触れてもらえれば有り難いことである。生死を超えて働きかけているこの仏の願いに気づけば葬儀や法事の目的は達したことになる。

いままで、葬儀や法事と言えば、形式的な通過儀礼ぐらいにしか思わなかった者が、あるいは亡き人のたましいの冥土での平安を祈り、天国から我々を見守って下さいという死者の対象化しか出来なかった者が、少なくとも「いのち」の共有をたよりに己の本性に向かい合うことが出来る。

ここまで話をすると、余人は必ず「霊」を「いのち」に置き換えただけですねと来る。似ている所もあるが決定的に異なるところがある。

なるほど「いのち」を客観的に対象化すると「霊」と区別が付かない。対象化された「霊」は人の思考の対象となり、その性格を超能力を持ったと自認する教祖様がそれらしく説明すると分かったような気になるから恐ろしい。ここで問題は「霊」を操作の対象とすることだ。結局古代の霊魂観に振り回され、己自を曖昧にして、教祖様の描き出した世界に埋没することになる。これを釈尊は無明と言われた。 

本徳寺住持 大谷昭仁

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