本徳寺の境内には三〇棟ほどの建造物がある。その内、本堂、大広間、経堂、庫裏、大門が県指定で、その他二〇棟ほどが姫路市の指定文化財である。これらの建物は元禄の頃にその伽藍形式が整えられたと云われているものの、建設年代を示す史料が乏しく正確なことはわからない。
お寺の古文書として残っている建物覚書によれば、その中には十七世紀のものが過半含まれているが、覚書の信憑性が問題となるところである。物証として各
建物の部材に残された年号から、元文三年(1738) /本堂宝珠柱名、享保六年(1721) /広間天井画、貞享二年(1685) /広間正面飾棟瓦銘記、寛延三(1750)/広間正面飾棟瓦銘記、延享四年(1747) /庫裡獅子口、享保十一年(1726) /経堂建立・本徳寺資料(石碑)、安永三年(1774) 茶所獅子口、安永(1772-1778)/太鼓楼懸魚裏、元録四年(1691) /大玄関獅子口、等が確認されている。
以上の諸史料を手掛りに推測すると、秀吉の寺領寄進により、一五八二年に英賀から亀山に中世の建設物が一部移築され、その後一世紀をかけて、元禄頃にほぼ伽藍構成の基本が出来上がったと思われる。一七〇七年、宝永の大地震で多くの建物が破損したことが判明しており、これをきっかけに十八世紀を通して、伽藍全体の再建がされたように思われる。さらに、安政の大地震で本堂が大破し、約半世紀をかけて、本堂が新築されたものの、落慶を待たずして、焼失したことが記録されている。この大事にあたり、京都の西本願寺から、新撰組の頓所としても使われた北集会所が移築され、現本堂となっていることは有名でる。
このような歴史の変節や地震・火災を経験しながら、播州の門徒・同行の懇念によってその都度再建され、曲がりなりにも維持されてきたことを想うと感慨深いものがある。
本徳寺には、歴史的建造物だけではなく、本尊や木像類をはじめ多くの法宝物が目録と共に蔵に保存され、英賀時代の梵鍾や鬼瓦なども文化財として保管維持されている。これらの法宝物は建物と異なり常時見ることは出来ないが、記念行事には、奥書院などで一般に公開され、歴史的教養を深めるよい教材となっている。