浄土真宗本願寺派(西本願寺派)

鐘突の深層

あの独特の響きを見せる梵鍾は何時の頃からなり始めたのでしょうか。

梵鐘の起源はインドの仏教寺院で聖なる音(梵音)を発する陶器製の打楽器の一つでした。礼讃音曲はもとより、修行生活を律するため、行事や時刻を院内に告げることにも使われていました。

その後、仏教が中国にもたらされてから、先進技術を用いて青銅(銅と錫の合金)鋳造されるようになり、現代の梵鍾の原型が出来上がりました。中国において鋳造技術の進歩と共に大型化し、西安の鐘楼に至っては、街の中心にシンボルとなる楼閣に懸垂され、街に時を告げるようになりました。当初、仏器具として僧院の中だけで使われていたものが、街の時刻鐘として社会的な機能を持ったものになったのです。

日本ではやはり仏教の伝来に伴って朝鮮半島よりもたらされ、奈良時代から造られるようになり、近世にいたるまで、和鐘として独自の発展をしてきました。特に、鎌倉以降、室町時代にかけて、河内に集中していた鋳物師が各地に分散して活躍したため、梵鐘の鋳造は西日本に広まったようです。播州では、野里の芥田氏が有名で、亀山本徳寺の梵鐘を永録九年に鋳造しています。この梵鐘は文化財に指定され、今も大広間の中庭に安置されています。

従って、里山に響く静かな深みのある音色の原景は、鎌倉時代以降、仏教が一般の民衆に受け入れられ、各地にお寺がたてられるようになってからです。その後、現在にいたるまで神仏習合という日本の特殊事情により、神社にも釣鐘が吊され、寺社伽藍の重要な建築要素となりました。梵鍾は、アジアの仏教文化のなかで、育てられ、梵鍾にまつわる多くの物語を生みだし、日本人の心に独特の情緒を形成してきました。

しかし、この一世紀半、文明化という大義のもとに進められた日本文化の破壊運動によって、梵鐘にまつわる功徳信仰や竜神伝説はまったく消え失せました。浄土真宗(宗派・教団)も、戦後、近代と云う時代に適応するのが精一杯、梵鐘の文化性を近代主義という強力な味方を武器にひたすら否定し、専ら、行事鐘や時刻鐘に終始して、立派な鐘楼は飾り物となってしまいました。あわてて付け加えさせていただきますが、真宗(一向宗)は当初、道場に梵鐘はなく、あったとしてもそれは太鼓楼の太鼓同様に連絡手段として実利的な利用に限られていたということで一応筋は通しているつもりですが、現代では何とも魅力のない言い訳に過ぎません。

そのような内部事情にもかかわらず、近代真宗の教学的イデオロギーとは無縁なところで、除夜の鐘は鳴り響きます。以前の梵鍾は大正時代(1926 年)に現在の鐘楼堂が完成した折、梵鍾の鋳込みを境内で行う際に、近郷の門徒が貴金属を投げ入れて作られたものです。このようにお寺の鐘は多くの門徒・同行の今では解読不可能な思いを秘めているものなのです。残念ながらこの梵鍾は戦時中に金属回収令(1942 年)によって供出してしまいました。現在の梵鍾は戦後、竹内きぬゑさんという玉出・善正寺の檀徒さんが寄進した物です。

遠くに響く澄んだ低音は、煽りの修羅場と化した現代社会に、癒しと静寂の脈動をもたらします。この梵音の一打は一朝一夕に作られたものではありません。永い念仏の歴史的営みのなかで同行門徒の幾多の思いや願いが蓄積され、我々日本人の心底に沈潜して出来上がった真宗文化の結晶と云っても過言ではありません。

梵鐘には「十方響流・南無阿弥陀仏」と刻印されています。鐘突は、鐘を突く者、聴く者が仏願に思いを馳せ、ともに拝み合う浄土世界を生きる刹那を具現する営みです。つまり、弥陀の誓願不思議をよりどころにして、自らの厳しい「いのち」の物語をお寺という歴史に刻印する作業ではないのでしょうか。

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