浄土真宗本願寺派(西本願寺派)

本徳寺の梵鐘と鐘楼台

世間ではあらゆるものが古くなっていく。人は古くなったものを新しいものに変えようとする。だから娑婆は移ろいやすくはかない。しかし、一方で、歴史的な遺産と言われるものが残っている。博物館入のものもあれば、いまだに現役のものもある。そこには歴史をくぐり抜けた人を引きつける価値がある。この歴史的価値は人から人に受け継がれていく。価値を受け継ぐ人がいる限り、「もの」はのこり、その「価値」を次世代に伝えることになる。

歴史的価値にはいろいろな側面がある。好古的価値、美的価値、史料的価値などは主に「もの」そのものに価値がある。他方、信仰的な価値、機能的な価値がある。これらは「もの」そのものよりも「もの」を媒介にして発揮する価値で、「もの」は置き換えられていく。たとえば、真宗の本尊などは、名号から絵像に、絵像から木像に変遷してきたが、後者の価値を主に担うものである。同様に、お寺の什物や建物なども、変化を通して信仰を体感できる意味空間を創出すると言う機能的な価値を持つものである。

一般にお寺は多数の建物や装備品から成りたっている。その一つ一つがある「価値」を実現するためにつくられたもので、そこにしかない特殊な事情を反映している。このプロセスが歴史的個性として認識され、それがお寺のの歴史性を育み、個々の由緒をもつこれら個物が組合わされて全体として普遍的な「価値」を作り出している。

世人は、本徳寺の境内に一歩足を踏み入れるや、近代の喧噪とはかけ離れた、静かな落ち着きと深い安らぎを感じると言う。それはまさにこの機能的価値に触れているからである。
その一つである本徳寺の梵鐘と鐘楼台にも注目すべき歴史的個性がある。少ない史料を手掛りにその歴史的価値を解読してみよう。

もともと、英賀に出来たお寺は寺内町のシンボルとして建てられた。民衆の砦であった寺内町は常に危機に直面していた。そのために他からの防御的機能や集団の自律性をもった建造物が必要とされ、それ故に太鼓楼や梵鐘が付属されたのである。

現在、史料的に確認されている梵鐘は4つある。最初の梵鐘は、この英賀時代のものだ。『英城日記』『播州船場本徳寺縁起』に「書写山僧衆農夫数百人、英賀御堂に押寄せ梵鐘を強奪するも、直ぐに取戻す」(1525年5月3日)とある。ここでは播磨の地で念仏信仰が受け入れられるまでの、新仏教と旧仏教の抗争を垣間見ることができる。その頃から、梵鐘は寺内の火急を告げる道具として、お寺の存在を象徴する物として認識されていたことが分かる。梵鐘の奪還に30人ほどの戦死者が出たと記録にあるから、まさに門徒はお寺を自らの命をかけて守ろうとした。その象徴が「梵鐘」であったのだ。残念ながらこの梵鐘は今に伝わっていない。

しかし、1566年5月に、三木宗大夫慶栄(三木家五代統領・三木通明)の寄進により梵鐘を新しく鋳造した。銘には「播州飾磨郡英賀東本徳寺常住撞鐘将志母十七回忌報恩願主城不明三木宗大輔入道慶秀周慈大工播磨姫路野里村五郎右衛門慰藤原安久作之」とある。慶栄の母の十七回忌に仏への報恩の意を梵鐘の鋳造に表したものである。製作は河内鋳物師の流れを汲む野里の安久によるものであることが分かる。後に、播州の一向勢力が解体され、秀吉の寺領安堵をうけて、本徳寺が亀山に移築された際に、この梵鐘も同行した。

江戸時代には、「飾万津八景」の一つに数えられ「亀山梵鐘」として記録されている。平和な時代になって、梵鐘は地域の時を刻む役割をはたし、法要・行事の参集の合図として用いられた。祖父の言に寄れば、大正期まで使用されていたらしい。右下の写真がその頃の様子をよく表している。

さて、この梵鐘の世代交代は、大正期になって、本徳寺の境内整備事業が進められた時に起こった。境内の南西の一角に日本庭園の造作と鐘楼台の建設が進められ、同時に経堂南の池の整備も進められた。

この時、古い鐘楼台も新しいものに変えられ、その設計施工は伊藤平左衛門によったことが記録にある。また、彫刻は播州の屋台彫刻で名を馳せた堤義法の作である。なお、伊藤平左衛門は当時高名な宮大工で、東本願寺の御影堂の建設に当たったことで有名。本徳寺では、少し前、1898年に、蓮如堂が再建されているが、やはり平左衛門の手によっている。これらの大事業のファンドは庭園の150本に及ぶ玉垣の記銘から、近隣の亀山門徒が中心になって募財がなされた。

鐘楼台は1921年10月に完成したが、鐘楼の大きさからみて、慶栄寄進の梵鐘では小さすぎる。鐘楼台の完成に合わせて、大型の新しい梵鐘の鋳込みが境内に穴を掘って行われた。記録に寄れば最初の鋳込みは残念ながら失敗している。現場での鋳込みは難しかったことが伺える。5年後に万難を排して鋳込みが行われた。福井幸次氏の目見録によれば、二度目の鋳込みに際しては、近郷の門徒衆が自ら所有の金銀類を提供して、その成功を願った。その甲斐あってか鋳込みは成功し、1926年に真新しい大型の梵鐘が新鐘楼台に懸架された。完成式には餅まきなどの行事が盛大に執り行われ、門信徒の喜びこの上ないものであったという。

1942年5月に、戦下の金属回収令によって、寺院の梵鐘や燈籠、仏具に到るまで供出の対象となった。梵鐘をはじめ、めぼしい金属製の仏器具が本徳寺から消失した。軍隊からは陶器の仏具が供給され、南蔵に一部が収蔵されている。このような事情のため、鐘楼台には以前の亀山梵鐘が吊され、二度のつとめを果たすことになった。この梵鐘は戦後も使用されていたが、鐘楼台とのバランスも悪く、内部に損傷があり、亀山梵鐘のかつての澄んだ音色を聞くことはなかった。

転機が訪れたのは戦後長らくして、竹内きぬゑ氏が父の二十四回忌と母の五十回忌に報恩供養の意向を梵鐘の新造に表した。これが、現在の梵鐘である。(左下の写真)恐らく軍事供出の鐘とほぼ同等の650貫の逸品である。毎日、午前6時と午後4時には時を告げ、大晦日には、除夜会のあと108つ除夜鐘の大役をはたして今に到っている。亀山梵鐘は文化財に指定され、いまは大広間の中庭で眠っている。

このように、本徳寺の梵鐘は時代と共にその役割も形も変わってきたが、歴史の過酷な変遷を通して、地域の特殊な歴史的経緯を刻みながら、普遍的な念仏信仰を時代を超えて伝えて来たのである。

右の写真は明治の頃の鐘楼の様子である。鐘楼台も低く階段は七段で、棟は南北に向き、懸架の鐘楼は亀山梵鐘である。池の位置は変わらないが、玉垣などの造作はない。池の水が満たされ、和服を着た風情が当時を物語っている。
左の写真は、伊藤平左衛門による現在の鐘楼である。大正期にこの一角の庭園が整備された。その中心事業がこの鐘楼の完成であった。昔の物に比べると、一回り大きく、棟も東西に方向を変え、階段は十一段になっている。庭園と池の周りに玉垣を巡らし、植生の成長と相まって、重厚な風情を醸し出している。

真宗文化研究室 大谷昭仁

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