浄土真宗本願寺派(西本願寺派)

浄土とは

仏教に無知な現代人から、「浄土はほんとうにあるのか、人間の考え出した理想郷の一種で、そんなものは存在しないでしょう」と問われることが度々ある。

人間の見識をもって阿弥陀経に説かれた金蘭豪華な仏国土を読み解こうとするとそういうことになる。科学的思考とその知識をもって実証される世界が唯一のものであると信じる現代人にとっては至極もっともな意見だが、科学についても無知らしい。当の科学は独特の思考を通してつねに新しい理論を生み出していく永遠に続く合理的な知の営みである。

だから、科学の成果として知識はつねに変化していくものだ。これを知らずに、人は自らの科学知を固定してそれを基準に物事を対象化し納得する。この知識
依存の特徴は言葉をつかって物事を表現することで、分かったと言う情緒を満足させる。これを人は「知った」という。

「知」= 〈しる〉の語源を紐解くと、「知る」は「領( し) る」とある。すなわち支配し自らのものとすることを意味し、主体が対象を支配する構造をもつ。漢語の「知」のつくりはものごとの有様を「矢」のように端的に「口」でもって言いあらわすことだとある。「識」は、「識別」すると熟して使われること
からも見て取れるように、あるものをそれ以外の他のものどもから判明に区別して分けることを意味する。

このことから、知識を通して認識するイメージは自分の見識つまり自分の都合で描き出した、あるいは切取ったモノであることが分かる。このような世界に居座る限り浄土は見えてこない。従って、浄土はないと結論づけられるのは至極当然だ。肝心なことは自分の知識で狩ったモノは、己の捕獲物でそれ以上の何物でも無い。このような行為に終始して、肝心なことを見逃しているのが現代人である。これを仏教では迷いと言う。

このような人間が諸行を通して仏の智慧の世界に気づき、その智慧に照らされて、己の存在が透けて見えた時、己の生きているいのちの本性があきらかになる。

十大弟子の知者の筆頭である舎利弗は仏陀に問うたことがある。「私とは何者ですか」である。

人間は知識によって他を分かろうとするが、その主体が問われることはない。この問いの答えを仏陀が方便化身の浄土をもって舎利弗に説いたのが仏説阿弥陀経である。「浄土」とは問うものではなく、問われるものである。

2018/01/01

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