浄土真宗本願寺派(西本願寺派)

善行を考える

因果は廻る。

前理事長の藤森病院の院長より頼まれて、数年前から姫路揚善会理事長の役を仰せつかった。祖父も父もやったからおまえもやれと言うことらしい。揚善会の目的は、隠れた善行者を発掘して善行を顕彰し、表彰することである。毎年数名の善行候補者を選出する。御意により引き受けたものの善行に甚だ疎い。

後の祭りである。善行を評価し顕彰することなど私の器ではない。大変なストレスを感じて納得した。

善因善果・悪因悪果はよく言われる仏教的倫理であるが、実はそう単純ではない。まず頭に浮かぶのは親鸞の和讃の一節である。

「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり」

善いこと悪いことの本質も分からず、世間で決められた善・悪を知識として学び、それを得意になって説教するのは、自分の虚勢でしかない。善悪の規範に捕らわれること無くまことのことを行うべきであるということらしい。善悪の道徳基準よりも嘘か真かの実践のほうが大切であることの意味である。

確かに、この娑婆界では、善悪の基準は社会や集団の都合によって反転するし、自ら善行をなしたつもりでも、条件によっては悪行にもなる。規範をひっさげての行為(因)はすべからく状況(縁)に応じて悪ともなり善ともなる。

私などは、外目は善行のかたちをとりながら、内心は愚悪の心相を反省することがある。まだ気がつけばよいが、それすら見逃すことが多い。結局、人は善行・悪行を道具として生きていかねばならぬ悲しい存在である。善悪にとらわれず私を生き抜く心はないかといろいろ考えたが、一つだけその可能性に気づいた。

仏の心に随順することを善として、仏の心に叛くことを悪とすればいいことだ。私のこだわり心を仏様は見抜いておられるところが有り難い。

2018/01/01

PAGETOP
Copyright © 亀山御坊本徳寺 All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.