年頭敬白

新年を迎え、有縁の皆様におかれましては、すこやかに新春を迎えられたこととお慶び申し上げます。旧年中は、常々、皆様のお蔭を頂き諸行事をはじめ寺務を修業させて頂きました。心から感謝申し上げる次第でございます。

昨年一年も、お寺がメディアに取り上げられた。TBSの高島礼子の家宝探索である。メディアへの露出は文化財を持つ以上致し方ないことではあるが、守らねばならぬ責任の重さは如何ともしがたい。防犯やメンテナンスのことを思うといささか気が滅入ります。

本堂や経堂、書院の老朽化など放って置くわけにも行かず、関係者に理解をもとめ微力ながら前進しようと思います。今年も播州の歴史・文化発揚の為、本徳寺の護持にご協力いただけますようお願い申し上げます。

老・病・死の役割

昨年十二月で古稀を迎えた。古来稀なりで長寿を祝う事になるが、昨今の高齢化社会ではその希少価値は無い。ちなみに昨年七月の厚労省の報告によると、日本人の「平均寿命」が過去最高の八十四才。六十五才以上の高齢者が人口の二十七%に達したとか。
いよいよ我々団塊の世代が総高齢化に突き進む。これから税金を納めない年金受給者が一挙に増えてくる。国の財政はたまったものではない。そのせいか、元気な高齢者はもっと働けと叱咤激励される。死ぬときはぐずぐずせずにぽっくり逝くのがお国のためだなどと、陰口をたたかれる。いつの間にか長寿を祝い、老人を大切にする文化はなくなった。

社会福祉制度によって、大半の高齢者は最低限の生活は保証される。有り難いことだ。しかし、実は老を生きると言うことはそれほど容易いことではないことを実感する。老人は社会的義務を軽減される代わりに、日々の生活体験を通して老・病・死を抱え込む事になるからである。

ところが、元気な者もそうでないものも高齢者はまだまだ欲界のど真ん中。これからが人生と、ジムに励む御仁、病に立ち向か う人、趣味に熱中する人、 社会奉仕に生きがいを見出す人、このように何かやらないと身が持たないという娑婆界の習慣を断ち切れず、「生きててなんぼ」の世界に固執する。そういう意味で老いを生きるとはやっかいなことなのだ。かように老後のバリエーションはいくつも選べるように見えるが、すべからく老・病・死を一時的に回避する本能的諸行である。いくらあがいても生者必滅・会者定離に収束するのは間違いないのに、老人の本来の有り様に気付く人は少ない。

それでも、両親を送り、伴侶と別れ、同世代の輩が逝き出すと、娑婆の縁もいよいよかと人は自覚し始める。七十にもなるとオギャと生まれたときが命の始まり、息をしなくなったら終わりだなどと娑婆の浅薄な生命観では手に負えなくなる。いよいよ老・病・死を正面から見据え命の本性を知る必然に迫られる。残念なことに世間智では拉致が明かない。仏法に聞くしかないと言うわけだ。これが本当の終活である。

仏陀は世間智をはるかに凌ぐ生命の真相を発見した。この生命観は倶舎論によれば「父母の精血を縁に自らの業識より生ず」だから、今生の心口身の三業を加えて後生に加印されて流れて行く。仏陀の因縁果の道理を踏まえて見ると生死の根底に息づく業識が全貌を顕す。「死んだら終い」などとたかをくくってはおられ
ない。私も余命をかけて、本当の老人の仕事をしていこうと思う。

本徳寺住職

感謝の一年

今年は平成最後の亥年です。亡くなった前坊守は亥年生まれで、それで判断するのはよくないのですが、猪突猛進のところがあり、後ろを振り返ることなく、とても前向きの人でした。後ろばかり見てくよくよする私には、見習うべきところです。

去年の九月、姫路仏教連合会の講演会の時、コーラスも助演させていただきました。その時も普通のコーラスではなく、何か印象深いものにしたくて、一年ほど前からいろいろと悩んでいましたが、金子みすゞさんの詩を朗読して、それに関した仏教讃歌を歌ったらどうだろうと思いにいたりました。

誰かに相談したかったのですが、金子みすゞと仏教讃歌のどちらにも精通している人が見当たらなく、一人で悶々と考える日が続き、なかなか決断がつきかねていました。
又、どの詩とどの歌が合うだろうか、と考えるのも一苦労で、段々これでいいのかと自信までなくなっていきました。

金子みすゞさんの詩は、昔から好きで、墨で書いて作品にしたこともあります。どこか寂しげで、悲しげで、でも深く優しいところに惹かれます。しばらくはこの詩に浸ってみようと、考えるのをやめてみたのです。読んでいくうちに、分かったのです。どの詩も仏様の眼差しで見ておられることが・・・。そのことを知って頂ければいいのではないだろうかと思ったのです。

半年後、ようやく詩と歌が決まり,部員の皆さんに伝えました。それから何度も練習を重ねるうちに、抱いていた不安は、杞憂だったとわかりました。上月さんの朗読は朗々として素晴らしく、歌も美しいハーモニーに仕上がりました。本番は大喝采で、その後,あちこちからお褒めの言葉もたくさんいただいたのです。

私一人で決めていいのかくよくよ考えていたこと、不安でいっぱいだったことが、こんなにも皆さんに受け入れていただいて、とても私の自信になり、感謝で一杯の気持ちです。今年の亥年にあやかり、もっと自分の気持ちを前面に出して
いけたらといいと思っているところです。

どうぞよろしくお願いいたします。

本徳寺坊守

正月を考える

こたつにミカン、お雑煮 におせち、いつもの年末年始の風情である。

お寺はそういうわけにはいかぬ。大晦日から元旦にかけて時間単位の仕事に追われる。夕刻より除夜会を勤め、年越し蕎麦もほどほどに寒風すさぶ鐘楼台で勤
行だ。そのうちに百人を超える門信徒が集り、壱百八つの鐘突を連打する。鐘突が終わらぬうちに、本堂で元旦会のお勤めが正月午前0時より始まる。締め
は、住職が法話をし、最後に残った方々とお屠蘇を頂く。一連の勤めが終わって戸締まりをし、大門にかんぬきを入れ、ホッとするのが午前三時である。

さて、修正会(元旦会)を勤めさせて頂きながらその起こりを考えさせて頂いた。平素の暮らしを顧みて、間違いを自覚し、過ちを懺悔して、今年からは正しい善い生き方をしようと決意するから、正月と言うらしい。

私もこの「正しい」生き方をしようと思ったその瞬間ハタと気づいた。「正しい生き方」とは何かである。この俗世界において、「正しさ」の基準はどこにあるのだろう。何をもって「優れている」いえるのか。「善い」とは誰が判断するのか?

まず、お寺に身を置く者だから、お釈迦様に聞 いてみる。
釈迦の教えに八正道というのがある。仏の智慧を得て悟りにいたる方法を体系的に示したもので ある。簡単に言うと、両 極端に偏らず調和の取れた状態、いわば中道の生き方である。「正」は「優れている」「善い」「的にかなった」「バランスのとれた」という意味を総括した「正しさ」である。 ここでは普遍的に正しいことがあるのではなく。中道を行ずる事が正しい仏の道を歩むことだと言う。

私はこう愚考する。絶対の「正しさ」は仏の智慧であって、我々には誰にもはっきりと認知できないしろものだ。自己の行為が普遍的な「正しさ」に近ければ近い程「正しい」と認められるのではないか。

それではなぜ釈迦は「正しさ」の基準を明示しないのだろうか。おそらく欲界にいる人間は明示されたものにを利用して己を利する行動をしてしまい、仏道に反する道を行くことになるからである。それでも「トライアルアンドエラー」(試行錯誤)で何度も失敗し、反省し、時には大きな責任を負って生きていく生き物である。しかしその たびに判断力が培われ、「正しさ」の精度を上げる事が出来るのだと思う。

本徳寺副住職

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新年のご挨拶

新年を迎え、有縁の皆様におかれましては、すこやかに新春を迎えられたこととお慶び申し上げます。

旧年中は、常々、皆様のお蔭を頂き諸行事をはじめ寺務を修業させて頂きました。心から感謝申し上げる次第でございます。

新しい年が始まります。お念仏に促されて、私達も新しい生き方を始めたいと思います。

思えば、私たち娑婆界に身を置く者は、多くのものに囲まれながら豊かさを実感できないでいます。

批判や言い訳は得意ですが、己を支えている人やものの存在に気付くことは希です。

生きていくために多くの知識をもちながら、肝 心の己が何ものであるかを知りません。目先の損 得には敏感ですが、事の真偽には疎いようです。

過剰な人生観「如何に生きるか」はあっても、たった一つの死生観「如何に死ぬか」をもてないのは悲惨です。

喜びや悲しみをかかえても、それを他者と共有することができない不幸。

こんな閉塞社会で、人はとまどい、孤立し、不安を抱き、最後の一息まで右往左往して骨になっていきます。

人と自然が分離され、己と他者とが分断され、生きることと死ぬことが乖離したこの時代に、生死出離の一大事を親鸞聖人の生き方から学ぶことは何よりも大切なことです。

年頭より、親鸞聖人の報恩講を厳修いたします。とりわけ十五日(水曜)・午後2時の報恩講式の「私記文・嘆徳文」の拝読を頂き、聖人のお徳を 聴聞されますようご案内申し上げます。